「本当はどうしたい?」と聞かれても、すぐには答えられないことがあります。けれど誰かに案を出されると、「それも少し違う」とわかる。答えを知らないのに、違いは感じる。この経験は何なのでしょう。
詩を書くときを想像してみます。次の一行が出てこない。いくつか言葉を置いてみるけれど、しっくりこない。ある言葉にたどり着いたとき、空欄が埋まるだけでなく、それまで書いてきた詩の意味まで変わって見える。哲学者ジェンドリンの議論には、こうした、表現が経験を先へ進めるという考えがあります。

鶴鳴を考えるときも、この見方は面白い。本音は、心の奥に完成した原稿があって、それを正確に読み上げるだけとは限らない。話したり、つくったり、誰かの反応を受けたりする途中で、自分でも知らなかった気持ちが形になるのかもしれません。
一方で、「ずっとそう思っていた」と気づく経験もあります。すべての気持ちがその場で新しく作られる、と決めるのも違いそうです。前からあるものを見つけることと、表すことで新しくなること。その両方が、一つの会話の中にもありそうです。
ここから、まだまとまっていない言葉にも意味が見えてきます。いきなり結論を求めず、いくつか表してみることで、次の言葉がわかることもある。ただし「しっくりきた」は自分の経験の手がかりで、相手や外の世界についての事実を証明するものではありません。
まだ考えていること:自分にぴったりの言葉を見つけることと、慣れた説明へ自分を押し込めることを、どう見分けられるだろう。相手の一言は、その違いにどう関わるだろう。
日々の中で、眺めてみるなら。
最近、話す前と話した後で、自分の考えが変わったことはある? どの言葉がきっかけだった?
この問いのそばにあるもの
E. T. Gendlin(2004)The new phenomenology of carrying forward ↗未完成の詩と、次の言葉を探す経験が出てくる論考(pp.130–133)。本文の暮らしへの重ね方は、このノートでの考察です。
古典・作品・論文の紹介と、こまとAIの対話から育てた見立てを重ねたノートです。原典がこの問いへの答えを決めているわけではありません。
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