何かを見て、思わず「好き」と言う。うまく説明できないけれど、引っかかる。話しているうちに、用意していなかった言葉が出てくる。鶴鳴は、そんなふうに、いまの自分から生まれるものを表していくことを大切にする言葉です。鶴が鳴く、と書いて「かくめい」と読みます。
01まだ、うまく言えなくても
たとえば「お店をやってみたい」と誰かに話したとします。何のお店か、いつ始めるのかは決まっていない。相手に「どんな時間を過ごせる場所にしたい?」と聞かれて、「好きな音楽をかけて、友達がふらっと来られて……」と話してみる。そこで初めて、お店そのものより、そんな時間をつくりたかったのだと気づくかもしれません。
最初の言葉が間違っていたわけではありません。その一声があったから、次の言葉に出会えた。本音には、前からあった気持ちに気づく面も、表すうちに形になる面もありそうです。鶴鳴では、その両方を大切にします。
だから、自分の中を全部整理してから発表する必要はありません。思わず出た言葉も、長い時間をかけて選んだ言葉も、自分の声になりえます。「自然に出なきゃ」「本当の本音を見つけなきゃ」と、正しい鳴き方を試験するための言葉にはしたくありません。

02鳴き返すのは、賛成だけじゃない
相手にも、その人の感じ方があります。「いいね」と広がることも、「自分はこう思う」と別の方向が見えることもある。聞き返されたり、思いがけない反応が返ったりして、こちらの考えも変わっていきます。
声は言葉に限りません。歌、絵、料理、身体の動き、日々の選び方にも、その人から生まれたものが表れます。つくった曲を誰かが踊ってくれる。育てた野菜で別の人が料理をする。自分の表現が、相手の表現の始まりになる。その続きを受け取って、また自分が鳴くこともできます。
返事がないときにも、その声が偽物になるわけではありません。今は話さずにおくことも、言い直すこともできる。自分の発露を大切にしながら、それをどう届けるか、届いた先で何が起きたかにも関わっていく。その往復を考えています。
03名前から、暮らしへ
名前の出発点には、諏訪の拠点「鶴鳴館」があります。そこに「革命」と同じ響きや、「鶴の一声」の意味が重なってきました。一人の偉い声が全部を決めるのではなく、一人ひとりから世界が動き始める。そんな願いも込めています。
古典にも、鶴の声が届き、別の声が応える場面があります。古い言葉といまの暮らしを重ねると、「表現はどこから生まれ、何を変えるのか」という問いが、もう少し遠くまで開いていきます。
鶴鳴国では、その声を暮らしや作品、学びや仕事へつなげたい。立派な宣言でなくても、「これ、やってみたい」から始まるものがあると思っています。
ここから、もう一歩。
本音は、見つけるもの? 生まれるもの? ↗そばに置いている本・出典
E. T. Gendlin(2004)The new phenomenology of carrying forward ↗未完成の詩と、次の言葉を探す経験が出てくる論考(pp.130–133)。本文の暮らしへの重ね方は、このノートでの考察です。
鳴鶴在陰、其子和之。『易経』中孚・九二。日陰で鶴が鳴き、その子が応える、という場面。古典の言葉を見る ↗